力学整体師・冨岡正喜の自己紹介
【力学整体史・整体院ヒストリー】
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力学整体師・冨岡正喜の自己紹介
力学整体の代表で力学整体研究所の所長である力学整体師・冨岡正喜の自己紹介をしています。
力学整体の歴史と整体院ヒストリー
力学整体研究所の歴史を紹介しています。力学整体の代表の生い立ちから学生時代、なぜこの仕事を選んだのか、どんな困難があったのか、これからどんなことをしていきたいのかを書いています。
新しい医療の世界
私がこの仕事に就くことになったのは大学時代に体調を崩したことに由来します。
しかし、当時の私は何だか調子がおかしいとは思っていても、自分の体が悪いのだということに気がつけませんでした。
大学を卒業した後、さらに体調が悪化して、同時にいろいろな症状が現れて来ました。
そうして、どうしようもない状態になってしまってから、やっと自分の体は病んでいることに気がつきました。
自分は病気であるという自覚を持てたときはすでに遅く、日常生活でさえままならなく寝たきりの廃人のような状態に陥ってしまいました。
あまりにもひどい状態になってしまった私は、まだ二十代前半という若さでこれからの人生どうやって生きていったらいいのかと自分の人生に絶望しました。
それからというもの、私は自分の体を治せる方法を必死になって探しました。
私は自分の症状が医学では病名もつかない病気であることに気がついていました。
そのため、医学以外にも自分を治せる治療法を調べてゆきました。
そうした中で、背骨のズレや体の歪みが原因で病気になるという考え方も初めて知りました。
それまで、医学だけしか知らなかった私にとって、医学だけがすべてではないということに驚きました。
医学以外にも治療法があるのだということに衝撃を受けたのです。
それは、整体やカイロプラクテックなどの各種療法(代替医学・代替医療・代替療法・民間療法・徒手療法・手技療法)の世界でした。
はじめての骨盤矯正
私が初めて読んだ徒手療法・手技療法の本は、五味雅吉著『腰痛 よく黙っていたもんだ―このおもしろ治療法知ってるか』(青春出版社、プレイブツクス)という本でした。
次に、五味雅吉著 『腰痛 我慢すれば悪くなる―自分で見てやれる図解版』 (青春出版社、プレイブツクス)という本を読みました。
そうして、五味雅吉氏が出している本を次々と読んでゆきました。
ですから、私が最初に出会った治療法は、仙腸関節のズレに着目し骨盤を矯正する五味雅吉氏の「骨盤調整法」というものでした。
骨盤調整法によれば、背骨が歪むのはその土台である骨盤が歪むからであり、さらに骨盤が歪むのは仙腸関節がズレるからであるというのです。
したがって、いくら背骨を矯正しても、その土台である骨盤を矯正しないと、また背骨の歪みが元に戻ってしまうというのです。
私は、背骨のズレや背骨の歪みを矯正する治療法よりも、その治療法のほうがより原因をさかのぼった治療法ではないかと思いました。
ただし、私は骨盤調整法の理論に対して、なぜ骨盤が歪み、仙腸関節がズレるのだろうかという疑問を持ちました。
しかし、五味雅吉氏の「骨盤調整法」の本ではそれ以上の説明はありませんでした。
私は疑問を持ちながらも、骨盤調整法には納得できるものがあったので、五味雅吉氏が主催している自然良能会のほうで紹介している骨盤調整法を受けられる治療院で、自宅から一番近い明石市の治療院へ通うことにしました。
一番近いといっても半日はかかりましたので通院は一日がかりでした。
初めて明石市にある治療院へひとりで行くときは不安でした。
というのも、体調が悪かったので、途中で具合が悪くなってしまい帰れなくなるのではないかと心配したからです。
それでも、何とか無事に治療院へ行くことができました。
その治療院は、接骨院(整骨院)でした。
接骨院(整骨院)といっても、五味雅吉氏の「骨盤調整法」と内海康満氏の「MRT[マート]療法(MRT仙骨瞬間無痛良法)」の2つの施術を行っていて、接骨院(整骨院)の通常業務は行っていませんでした。
私はその治療院で、五味雅吉氏の「骨盤調整法」の施術をもっぱら受けていて、内海康満氏の「MRT[マート]療法(MRT仙骨瞬間無痛良法)」の施術は受けませんでした。
私は、その治療院で、内海康満氏の「MRT[マート]療法(MRT仙骨瞬間無痛良法)」の施術は受ける患者さんを横目で見ながら、自分も「MRT[マート]療法(MRT仙骨瞬間無痛良法)」を受けたほうが良いのかなあと絶えず疑問を持ち続けました。
ただ、患者の立場として、同じ治療院で2つの治療法をやっているということは、五味雅吉氏の「骨盤調整法」だけでは良くならないから、内海康満氏の「MRT[マート]療法(MRT仙骨瞬間無痛良法)」もやっているのかなあと不安な気持ちになりました。
患者としては、五味雅吉氏の「骨盤調整法」に対する信頼が減るような思いがしました。
治療院の治療家が複数の治療法を併用している場合、患者はどの治療法を受けたら良いのか迷ってしまいます。
結局、そこの治療院へは約2年間通院しました。
最初の頃は、治療を受けるとある程度体が軽くなっていたのですが、通い始めてから1年くらいすると、治療を受けても最初の頃のように体は軽くはならなくなっているのに気がつきました。
それでも、最初の頃にはある程度治療効果があったこともあるし、他にいい治療法も知らないことから通い続けました。
しかし、通い始めてから2年くらいになると、これ以上その治療法を受け続けても効果を望めないということが何となく自分でもわかって来ました。
私が受けていた治療院では、仙腸関節を中心として骨盤を調整する施術だけではなく、全身の施術も行っており、施術の内容はいわゆる一般的な整体・カイロプラクティックとほとんど類似したものでした。
後年になって、私はこの体験から、同じ治療を受け続けると、その治療の効果が逓減するという現象を「治療と刺激」という観点から解明しました。
また、治療効果が逓減するという法則は、「治療の本質」ということと深く関わっているということを発見しました。
こうしたことは、何も整体やカイロプラクティックなどの徒手療法・手技療法だけではなく、他のほとんどの治療法でも同じように当てはまることにも気がつきました。
その当時の私は、れ以上施術を受け続けても効果を期待できいとなぜ体で感じるのかまではわかりませんでしたが、その治療法の限界というものをはっきりと意識するようになったのです。
こうした治療法の壁というものに気がついた私は、途方に暮れてしまいました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)との出会い
ちょうどその頃、私は礒谷公良著『奇跡の礒谷療法―自然回復力を活用する』(祥伝社、ノンブック)という1冊の本と運命的な出会いをしました。
当時の私は、何とかもっといい治療法は他にないものかといろいろな治療法の本を読みあさっていましたので、この本の存在については以前から知っていました。
しかし、表紙のカバーの写真がりんご(リンゴ・林檎)で、サブタイトルに「自然回復力を活用する」などと書かれてあったため、私はてっきり食事療法の本だとばかり思い込んでいました。
礒谷療法という名前からして、いかにも食事療法のような感じがしたのです。
ですから、自分には食事療法は関係ないと思っていた私は、その本の存在を知ってはいても読む機会はありませんでした。
しかし、書店で見かける治療法に関する本を読み尽くしてしまった私は、読む本がなくなってしまいました。
そこで、自分とは関係ないだろうが、何かの役に立つかも知れないと思い、とりあえず読んでおこうと読み始めたものです。
ところが、この本を読み始めてみて、私は驚きました。
というのも、この本には、私がここ2年間ずっと疑問に思っていたことへの解答が書かれてあったからです。
私の疑問というのは、背骨が歪むのは骨盤の歪みが原因であり、骨盤の歪みの原因は仙腸関節のズレにあるという仙腸関節説に対して、ではなぜ骨盤が歪み、仙腸関節がズレるのかというものでした。
礒谷療法(礒谷式力学療法)によれば、股関節で骨盤にはまりこんでいる大腿骨の角度がズレると、左右の脚に長短差が生じるというのです。
そのため、二本の脚で立ったとき、長い方の脚の骨盤側は上方へ押し上げられ、短い方の脚の骨盤側は下方へ落ち来て、仙腸関節がズレて骨盤が傾斜することになるというのです。
また、礒谷療法(礒谷式力学療法)では、股関節で骨盤にはまりこんでいる大腿骨の角度がズレるのは、日常生活での習慣的な動作や姿勢に原因があることを究明していました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)への確信
私は「コレだ!」と思いました。
これこそ、私が探し求めていた治療法だと思いました。
自分の身体を治せるのはコレしかないと思いました。
ところが、当時、礒谷療法(礒谷式力学療法)を受けられる治療所は東京に一カ所しかありませんでした。
私が住んでいる兵庫県赤穂市からは遠すぎてとても通える距離ではありません。
礒谷療法(礒谷式力学療法)では、大腿骨が外側へ開いたり、外方へねじれたりすると、脚が長くなるといいます。
その反対に、大腿骨が内側へ閉じたり、内方へねじれたりすると、脚が短くなるといいます。
私は、股関節で骨盤にはまりこんでいる大腿骨の角度がズレると、どうして脚が長くなったり短くなったりするのかという理由について疑問を持ちました。
しかし、礒谷公良著『奇跡の礒谷療法』(祥伝社、ノンブック)という本にはそのことが説明されていませんでした。
そこで、もう少し礒谷療法(礒谷式力学療法)のことを調べてから今後のことを決めたいと考え、東京の礒谷療法所(礒谷式力学療法所)から礒谷療法(礒谷式力学療法)に関する本やビデオなどを全部取り寄せました。
ビデオの臨床例には小児麻痺などの凄(すご)い記録映像がありました。
これだけの症例数をビデオの記録映像に残している治療法はありません。
しかし、分厚い専門書でも、理論的な内容は礒谷公良著『奇跡の礒谷療法』(祥伝社、ノンブック)という本とそれほど大差はありませんでした。
本を読んでも(本には自分で脚型を診断できる自己診断のチェックリストの項目もありました)、自分はどちらの脚が長いのかよくわかりませんでしたし、自分が何型なのかもわかりませんでした。
後年、礒谷療法師になって、本を読んだくらいの知識で、素人が自分で脚型を自己診断できるはずがないことも分かりましたし、その危険性も知ることになりました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)が受けられない
そこで、これはもう実際に治療を受けてみるしかないという結論になって、思い切って礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ電話をかけてみることにしました。
ところが、電話に出た男性からは弱々しい声で「大先生は亡くなりました。療法所は閉鎖していてもうやっていません」という思いがけない返事がかえって来たのです。
私は驚きました。
せっかくコレだと思える治療法に出会えたのに、それが受けられないというのです。
礒谷療法(礒谷式力学療法)を受けられないと知ったときの驚きとショック(衝撃・精神的打撃)たるや筆舌に尽くし難いものでした。
私は自分を治せるかもしれない治療法を受けられなくなってしまったと絶望しました。
後日わかったことですが、電話に出られた男性は受付の黒木先生で、礒谷公良先生は平成元年2月7日に亡くなられたということでした。
私が礒谷療法所(礒谷式力学療法所)に電話をしたのはまさにその直後のことでした。
私は礒谷療法(礒谷式力学療法)に希望を見いだし、何とかこの治療法を受けたいという思いで必死でした。
そこで、きっとお弟子さんがいるのではないかと思い、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)のほうへお弟子さんでいいから紹介してもらえないだろうかと手紙を出しました。
しかし、返事はありませんでした。
母の思い
その後、私は何をする気も起こらず、時間を無為に過ごしていました。
そんな私を母親が見かねて、もしかしたらまたやっているかもしれないから、東京の礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ電話をしてみればと言ってくれました。
しかし、いったん閉鎖した療法所をまた再開するなどということはあり得ないことだろうし、療法所のほうへ手紙を出しても返事がなかったことから、また再開しているとはとても思えませんでした。
ですから、母がそう言ってくれても、私はもう一度電話をしようとはしませんでした。
ところが、5月のある日のこと、母が勝手に礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ電話をしたのです。
そして、母から「また、やっていると言っているよ!早く電話に出て!」と私を呼ぶ声が聞こえるではありませんか。
私は本当に驚きました。というか、療法所を再開しているということが信じられませんでした。
あわてて電話に出た私は、電話口の向こうから聞こえる女性から療法所が再開していることを知らされました。
そして、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の案内書を送ってもらえることになったのです。
このときの私の感激と嬉しさというのは言葉に言い尽くせないものでした。
そして、電話をしてくれた母に感謝しました。
もし、母が電話をしてくれなかったら、私と礒谷療法(礒谷式力学療法)との関係は途切れてしまっていたことでしょう。
後日、電話口に出てくださった女性は女先生[礒谷公良先生の長女の礒谷俊子(礒谷圭秀)先生]だということを知りました。
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の予約
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)から案内書が届きました。
案内書を見た私は、とにかく実際に矯正治療を体験してみないことには何も始まらないと思い、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ電話をして予約を取りました。
当時、予約は午前中だけでしたので、予約時間に間に合わせるには前日に東京で宿泊する必要があり、旅行会社を通じて神田のホテルを予約しました。
上京後、一泊して翌朝、予約まで時間があったので、私はホテルの浴室で入浴をしました。
ところが、弱っていた私の体はお湯の温度で急激に血流が速くなったのについてゆけず、気分が悪くなってしまいました。
このとき、自分の体はここまで弱っているのかと愕然としました。
しばらく休んでいると、やっと落ち着いて来た私は、ホテルを出て礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ向かいました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)の体験治療
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ初診で行くと、まず初診者用の解説ビデオを見せられました。
この説明デオは既に見ていたものでした。
その後、脚型診断を受けてLO型という型に決まり、礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正治療を受けました。
それから、自宅矯正法や日常動作による矯正法の指導を受けました。
後でわかったことですが、私の脚型診断と施術の矯正治療を担当してくださったのは菊池秀男先生で、自宅矯正法と日常動作による矯正法を指導してくださったのは細木原先生と水野先生でした。
実際に教えていただくと、本を読んで理解していたやり方とはかなり違っていました。
やはり、こうした矯正治療法は、書籍などの写真、イラスト、文章等で理解するのには限界があることを知りました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)の体験治療の感想
あれほど憧れていた治療法を実際に受けることができたわけですが、治療法を受けられたという感動はあるものの、その効果となると正直なところよくわからないというのが本当のところでした。
それで、これはやはり私の悪化した体では1回や2回くらいの治療では効果は出ないものなのだと思いました。
というか、自分の体で1回や2回くらいで効果が現れてるほうがおかしいくらいに考えていました。
ですから、効果がなくてもむしろ当然だし、この治療法は継続して受け続けなければいけないと思いました。
何年かかるのかわからないが、とても短期間でよくなるものではないということは自分でもわかっていました。
背骨が後方へ飛び出る(突き出る)
実は、初回の矯正治療を受けて自宅へ帰ってから自分の身体がトンデモないことになっていることが分かりました。
自宅へ帰った私は早速礒谷療法所(礒谷式力学療法所)で教えてもらった自宅矯正法の膝引き・膝抱えをやろう仰向けになり両膝を曲げた状態で両脚を上へ上げて胸に近づけようとしたところ背骨で激痛が走ったのです。
背骨が下の床面に当たる(触れる)と、突然もの凄い痛みに襲われたのです。
いったいこの猛烈な痛みの原因は何だろうと手を背中のほうへ回して激痛のしたところを触れてみると、何と!背中の真ん中の背骨(腰椎の棘突起)のところが突き出して盛り上がっているではないですか!
背骨が飛び出た部分に触って少し押してみると酷(ひど)い痛みがありました。
これが激痛の原因だったのかと理解するとともに、こんなに背骨が飛び出して突き出ていることに驚愕するとともに狼狽しました。
そして、これが治らなかったらどうしようと真っ青になってしまいました。
原因を考えてみると、思い当たることがありした。
久しぶりの東京だったので、神田の古本屋を回って買い込んだ古本を入れて重くなったバッグを背負って歩き回ったのです。
おそらく、重い荷物で脊椎分離症(腰椎分離症)だった背骨の椎体と椎弓がさらに分離して椎弓が後方へ滑(すべ)って、ちょうど脊椎すべり症(腰椎すべり症)のようになってしまったのではないかと考えられました。
せっかく礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ行って自宅矯正法のやり方を教わったのに、膝引き・膝抱えができないのですから本当に困りました。
私は何とか早く良くなりたい一心でしたので、自宅でも自宅矯正法をしっかりやろうとやる気満々(やる気まんまん)でした。
私は痛かろうが何だろうが、とにかく自宅矯正法を何が何でもやろうと膝引き・膝抱えをしようとしました。
膝引き・膝抱えで両脚を深く曲げて胸に近づけようとすると、背中が丸まって突き出た背骨が床に当たって激痛が走るので、両脚を曲げるのを浅くして両手で引き寄せる動作も弱くやって少しくらいの痛みは我慢して激痛が走らないようにおそるおそるやりました。
膝引き・膝抱え以外の自宅矯正法は問題なくできたのでしっかりとやってゆきました。
そんな調子でやっていて1カ月ほど経った頃でしょうか、気がついたら、いつの間にか激痛が走らなくなっていて、飛び出ていた背骨の盛り上がりも消えていました。
何と、突き出ていた背骨が凹(へっこ)んでいたのです。
このまま背骨が突き出ていたままだったらどうしようと弱り切っていましたから、この時は本当にほっと(ホッと)安堵しました。
治療に専念するため上京を決意
そこで、東京の中野駅の近くでアパートを借りて、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ通う決心をしました。
しかし、私の体では東京の夏の暑さに耐える自信がなかったことから(大学時代に東京・中野区に住んでいたので東京のヒートアイランド現象を知っていた)、9月の上旬を過ぎて涼しくなって来る中旬の時期から本格的に矯正治療を受けることにしました。
8月になって、上京して中野駅の近くでアパートを借りました。奇しくも、大学時代に住んでいたアパートから近い場所でした。
その際、序でに礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へも行き矯正治療を受けてから帰省しました。
そして、9月13日に上京し、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)で本格的に矯正治療をスタートしました。
その時、私は28歳でした。
矯正治療3カ月
私は、1年間ほとんど毎日礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ通いました。
私の矯正治療を担当してくださったのは主に反中武雄先生(故人)でした。
その間、私は必死になって矯正治療を受けました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)では屈伸運動という運動療法があるのですが、私はこれをほとんど毎日欠かさず1日約8時間以上も実行していました。
この屈伸運動をやったことがある人はわかるのですが、毎日8時間以上しかも1年にわたって屈伸運動を行える人というのはほとんどいないと思います。
私は治りたい一心で必死でしたので、決死の覚悟でやり通しました。
本には治療期間の目安として3カ月と書いてあったので、私は3カ月くらいすればある程度何らかの効果があるのではないかと期待もし、自分でも計算して見込んでいました。
しかし、3カ月を過ぎても一向に良くなる気配がありません。
それどころか、礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正による反応が出て来たのです。
この最初の3カ月目で、私は礒谷療法(礒谷式力学療法)を止めようかと正直迷いました。
私のような反応が出た場合、大部分の人は恐怖でパニックになるし、百人いたら百人、千人いたら千人とも礒谷療法(礒谷式力学療法)を止めてしまうと思います。
しかし、礒谷療法以外に頼る治療法もなかったし、あまりにも礒谷療法(礒谷式力学療法)を信じる気持ちが強かった私は、3カ月を過ぎてもそのまま続けました。
私がこの反応に恐怖心も抱かず、精神的パニックにも陥らなかったのは、礒谷療法(礒谷式力学療法)に対する信念と生来ののんき(暢気・呑気)な性格によるところが大きかったのかもしれません。
私がこの反応にもかかわらず、礒谷療法(礒谷式力学療法)を継続して体験や経験したことが、後年、力学整体の発見へとつながることになります。
2つの反応のうち、1つの反応に関して反中武雄先生に質問したところ、肩が前へ出ている(肩関節の前方転位)からだという回答でした。
この回答は、礒谷療法(礒谷式力学療法)では肩から上部の症状を説明する形式的な解答ですが、私はその説明に納得しかねるところがありました。
というのも、反応で起こった症状は、礒谷療法(礒谷式力学療法)を受ける前にはなかったものであり、肩が前へ出ている(肩関節の前方転位)状態は礒谷療法(礒谷式力学療法)を受ける前からあったであろうと考えられるからです。
肩が前へ出ている(肩関節の前方転位)ことが原因であるならば、反応の症状も礒谷療法(礒谷式力学療法)を受ける前からなければおかしいことになるからです。
それなのに、礒谷療法(礒谷式力学療法)を受けてから反応の症状が起こるようになったわけですから、肩が前へ出ている(肩関節の前方転位)ということでは説明がつきません。
それでも、1カ月ほどして反応の一つは消えました。
しかし、もう一つの反応のほうはその後4年間にわたって続くことになります。
もう一つの反応に関して反中武雄先生に質問すると、左の股関節が元に戻って開いているからで、「日常動作による矯正法」を守って左の股関節を元に戻さないようにすることと、左の股関節を矯正して中(内)側へ入れれば良いという回答でした。
確かに、礒谷療法(礒谷式力学療法)の理論ではこの股関節転位が原因であるとする回答は正解となるわけですが、というか礒谷療法(礒谷式力学療法)ではそのようにしか説明の仕様がないため、その理論にしたがって左の股関節を中(内)側へ矯正する治療を継続することで結果として反応を収めることができなかったのです。
ただ、実際のところ、反中武雄先生も菊池秀男先生も、私のこの反応についてはよくわからないようでした。
後年、私は力学整体を発見してこの2つの反応を解明し、礒谷療法(礒谷式力学療法)では説明もつかず対応もできない現象を、力学整体ではこれらの反応の説明がつくようになりましたし、対処(対応)もできるようになりました。
はじめての手応え
そうして矯正治療を開始して約1年が経過した頃です。
ある肌寒い日に、都営地下鉄東西線の高田馬場駅のホームで電車を待っていると、左頬にしびれ(痺れ・シビレ)が走るのを感じました。
このとき、私は、左頬から顎にかけて絶えずあったしびれ(痺れ・シビレ)がなくなっていたことに気がつきました。
ジワジワ、ピリピリと絶えずあったしびれ(痺れ・シビレ)が消えていたことにずっと気がつかずにいたのですが、再びしびれ(痺れ・シビレ)が走ったことで以前あったしびれ(痺れ・シビレ)がなくなっていたことに気がついたのです。
このとき、目に見えないところで、私の体は確実によくなっていたのだと思いました。
弟子へ
ちょうどその頃、私にとって人生の岐路を決める大きな転機が訪れました。
礒谷公良先生の後を継いで礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の二代目院長になっていた長女の礒谷俊子(礒谷圭秀)先生から礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の仕事を手伝ってみないかというお声をかけていただいたのです。
私は体調を崩してからというもの自分の人生を諦めているところがありました。
しかし、患者として礒谷療法所(礒谷式力学療法所)に通いながら、私のように病苦で悩んでいる人のために、できれば礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の仕事のお手伝いができればと思うようになっていました。
私のような家族に世話ばかりかけて役立たずの人間でも、人のお役に立てればどんなに良いだろうかと思っていました。
たとえ礒谷療法(礒谷式力学療法)の技術を教えてもらえなくても、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の仕事なら雑用でも構わないという気持ちでした。
それが、図らずも礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の弟子として中へ入ることができたのです。
しかも、当時は礒谷公良先生のお弟子さんたちが職員として6名も残っていたのです。
こんな幸運に恵まれるとは思いもしませんでした。
その時、私は29歳になっていました。
大先生時代の職員に学ぶ
弟子として入った当初は、出勤する日にちも毎日ではなく、勤務時間も短かったのですが、すぐに毎日朝から晩まで診療時間いっぱい勤務するようになりました。
さすがに丸一日勤務するようになってからは屈伸運動を8時間もすることはできなくなりました。
それでも、2時間は確保するようにしていました。
弟子として中へ入ってみると、患者として知っている知識と、礒谷療法師の先生として知っている知識には大きな隔たりがあることがわかりました。
いくら患者としていろいろ教わって知識があったり、経験があったとしても、患者さんと先生とでは知識と経験の差は大きいのです。
患者さんとして学べることと、先生として学ぶこととでは知識の内容の面でも違っていました。
患者として1年間ほとんど毎日のように通っていろいろなことを覚えたつもりでも、知らないことのほうが多かったのです。
私は自分の知らなかった新しいことを学べる喜びでいっぱいでした。
私は日頃から疑問に思っていた内容を礒谷公良先生当時から残っておられた職員の先生方にそれぞれ同じ質問をしたりしていました。
先生方から教わったことを比較対照しながら、礒谷療法(礒谷式力学療法)の知識を深めてゆくことができました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)の創始者である大先生時代の当時の先生方からこのような貴重な内容を毎日学べる機会を与えらた私は本当に幸運でした。
しかし、しばらくしてその先生方も菊池秀男先生と私以外は退職することになりました。
私は正式な職員として礒谷療法所に残ることになったのですが、私にとってこのことはとても残念なことでした。
ただ、反中武雄先生と黒木先生は引き続き出勤はされていました。
ふたりの先生
そうして、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の常勤の職員としては菊池秀男先生と私だけになってしまいました。
それからというもの、私の矯正治療は反中先生に替わって菊池先生に毎日していただくようになりました。
私が最も師事した先生はお二人いらっしゃいます。
菊池秀男先生と反中武雄先生です。
このお二人の先生から教えていただいたことは数限りなく、その恩恵は私にとって大きな財産となっています。
私を礒谷療法師の治療家として育てていただき、お二人の先生には今でも本当に感謝しています。
継承者(伝承者)は私しかいない
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)ではいつも菊池秀男先生と一緒でしたし、現場の責任者である菊池先生からは本当に多くのことを学びました。
私が礒谷療法(礒谷式力学療法)で一番多くのことを教わったのは菊池先生からです。
菊池先生は、若先生[礒谷公良先生の長男・礒谷良仁氏]にやり方を教わったものの、ご自身が現場で礒谷公良先生から眼で見て、声で聴いて学んだせいもあって、私にも「眼で見て、耳で聴いて覚えろ」と同様の学び方を要求されました。
菊池先生は私に手取り足取りは教えてくれませんでした。
そのせいもあって、私は菊池先生からは知識と技術を盗むような学び方をしました。
当時、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)に患者さんとして20年来以上通所されていて、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の仕事にもお手伝いに来てくださっていた白鳥さんという方がいらっしゃいました。
その白鳥さんからは「礒谷療法(礒谷式力学療法)の知識と技術を学べるのは菊池先生とずっと一緒にいるあなたしかもういないのだから、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)にいる間は菊池先生から学べるだけ学ばなければいけないよ」と言われたりしました。
白鳥さんは「あなたの仕事は菊池先生の技術と知識をできるだけ盗むことだ」とも言われました。
眼で見る
私は菊池先生の施術の仕方を毎日注意深く観察していました。
ちょうど1年くらい経過した頃に、私は菊池先生が施術のやり方を患者さんお一人お一人に合わせて微妙に加減しているのが眼で見えるようになりました。
患者さんによって施術を変えていたのです。
毎日一緒にいて毎日見ていたのにそれまでは見えていなかのです。
このことは私にとって本当に驚きでした。
毎日菊池先生と一緒にいて菊池先生の手技の微妙な調節が見えるようになるまでに1年もかかったのです。
と同時に、見えるようになったことがとても嬉しかったです。
そして、見えるようになると、この先生は何て上手い(うまい)んだと感心もしました。
耳で聴く
私は菊池先生の話にも絶えず注意を払い、聞き耳を立てていました。
先生の話から学べることが多かったからです。
特に、患者さんとのやりとりは参考になりました。
たとえば、礒谷療法(礒谷式力学療法)では、屈伸運動というのがあります。
この屈伸運動というのは、患者さんの脚型を判定して、脚型に合わせて基本的な足の位置が決まっています。
それだけなら、脚型さえ決まれば、それに応じた足の位置で実施していただければ良いわけです。
ところが、患者さんによっては基本的な足の位置では駄目なこともあり、また、屈伸運動中に何らかの症状が発生した場合、その症状に合わせて足の位置を変えてゆかねばならないのです。
そのため、変型のパターンは複雑で、それらを覚えるのに苦労をしました。
患者さんが先生に足の位置の変え方を質問し始めると、患者さんと先生の近くに寄って行って、先生が患者さんの足の位置をどのように変えているかを見ているわけです。
この場合は、このように変えるのだというふうに一つ一つを積み重ねて覚えていきました。
そうして、基本的な変え方がわかるようになるのに6カ月かかりました。
さらに、応用的な変え方がわかるようになるのには1年かかりました。
変え方がわかるようになると、原理がわかるようになり、変え方の法則もわかるようになりました。
3年目でもまだ知らないことが・・・
菊池先生を師事して3年くらいたった頃には、私はもう覚えることはないだろうと思っていました。
ところが、ある動作のやり方で菊池先生が話されているのを聞いていると、それは私の知らないことでした。
私は自分でもまだ知らないことがあったのだと驚きました。
菊池先生とは3年間毎日一緒にいてもまだ覚えていないことがあったのです。
礒谷公良先生はその著書の中で、礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するのに2~3年はかかると書かれているのは本当だなと思いました。
菊池先生は礒谷療法師として一人前になるには10年かかるとおっしゃっていました。
したがって、礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するのには、優れた先達に就いて、最低でも2~3年はその先達と毎日一緒にいて指導を受ける必要があります。
職人の世界と同じで、礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するのには、徒弟制度や内弟子制度のような修行が必要なのです。
ですから、講習会や研修会、セミナーなどで礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得することはできません。
反中武雄先生と副木固定法(ギプス)
反中先生は退職後も礒谷療法所(礒谷式力学療法所)のほうへよく出て来られて仕事を手伝ってくださっていました。
反中先生は小児麻痺などの重症患者さんに行う副木固定法(ギプス)の専門家でした。
私は反中先生によく質問をしていろいろ教わりました。
私が何度も質問をしても、その都度丁寧に教えてくださるのです。
私が礒谷療法(礒谷式力学療法)について一番質問をして聞いたのは反中先生です。
反中先生には副木固定法(ギプス)も教わりました。
菊池秀男先生と礒谷療法(礒谷式力学療法)の修行
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)では施術者は菊池先生と私だけの二人きりになってしまっていたので、私を早く育てるために比較的早くから患者さんの矯正治療を担当することになりました。
私は入って1年間くらいは修行期間として座蒲団(座布団)運びの雑用や、患者さんの起こし、初診患者さんへの説明指導などの比較的責任の軽い仕事だけしかやらせてもらえないものと思っていたので、こんなに早くから患者さんの矯正治療を担当する責任の重大さに戸惑いました。
そのことを菊池先生に相談したら「覚えるのには早ければ早いほど良いだろう」とにべもないお返事でした。
菊池先生は最初の頃は、比較的矯正をしやすくて症状も軽い簡単な患者さんから私に担当するよう配慮していただきました。
そうして、私は患者さんの矯正治療を担当しながら少しずつ臨床経験を積み覚えていくことができました。
それでも、私は礒谷式の股関節矯正法をある程度習得できるまでに約6カ月ほどかかりました。
6カ月くらいしてやっと普通の患者さんの矯正ができるかなと思えるようになりました。
しかし、股関節脱臼や変形性股関節症などの患者さんの矯正はまだ習得できませんでした。
股関節脱臼や変形性股関節症などの患者さんを担当するようになった最初の頃は、正直、本当に恐ろしく怖かったです。
股関節脱臼や変形性股関節症などの患者さんも矯正ができるかなと思えるようになるには約1年かかりました。
その後、私の後に後輩の人たちが入ってくるのですが、私のように早くから患者さんの股関節矯正を担当させてもらえず、股関節矯正を覚えられない後輩が何人もいたのです。
1年間いても、患者さんの股関節矯正を担当することなく、股関節矯正を覚えられず去った後輩たちもいました。
結局、私の後輩で礒谷療法(礒谷式力学療法)をある程度習得できたのは倉津充(故人)さんお一人だけでした。
こうして早くから患者さんの股関節矯正を担当させていただくようになったお陰で、私は礒谷療法(礒谷式力学療法)を誰よりも早く習得できたことを思えば施術者としては本当に幸運なことでした。
修業時代の工夫と独自の手技の確立
私は股関節を矯正する技術についても自分なりに工夫して練習を繰り返しました。
銭湯には大きな鏡があったので、鏡の前で自分の手技を見ながら何度も練習したものです。
礒谷式の股関節矯正法は股関節で大腿部を屈曲させた(押し込んだ)状態で方向転換するので、患者さんとしては少なからず衝撃があります。
これを何とかしたいと思いました。
最初は、この股関節矯正の方向転換を直線方向ではなく円方向で操作してみればいいのではないかと考えました。
武道などでも直線の動きより円の動きのほうが優れているというからです。
しかし、股関節矯正の方向転換に円方向での運動を施すと、かえって股関節部に負担をかけることがわかりました。
そこで、私は股関節で屈曲後の応力を利用して力を抜いた状態で方向転換をはかるという技術を開発しました。
これなら、患者さんが矯正時に受ける衝撃が少なく、施術者も施術時にそれほど力を入れないで済みます。
また、矯正時の応力を利用するため骨格系と同時に筋肉系も無理なく方向の転換が可能になりました。
施術者が力を抜いて施術を行えるため、患者さんも軽く施術を受けることができるようになりました。
こうした私は独自の技術を開発することに成功しました。
その点で、私の股関節矯正の技術は他の礒谷療法師の先生方とは違います。
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の患者さんからも私の施術が他の先生方とは違い独特であると指摘されることがありました。
この時に開発した技術は力学整体でも改良されて活かされています。
講習会制度と研修会制度の開始
私が礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の内弟子として入った頃、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)では新しく講習会制度が始まりました。
そのため、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)では講習生を受け入れ、菊池先生と私が講習会の講義と実技を担当することになりました。
当初、菊池先生が礒谷療法の講義と股関節矯正法の実技を担当し、私はその他の実技と自宅矯正法や日常動作による矯正法などを担当しました。
その後、私は股関節矯正法の実技も担当するようになりました。
講習会制度が開始した最初の頃は、講習会は2日間で行われました。
2日間の講習に参加するだけで、礒谷療法正師範の資格が授与されるのです。
その後、2日間の講習だけで資格を付与することが問題になり、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)で実習も行う研修会制度が追加されました。
講習会を受けた講習生が研修会に参加して研修生として研修を受けるというものです。
私自身はこうした講習会制度と研修会制度には疑問を感じていました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するための条件を満たしていないのではないかと思われたからです。
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の修得時間
私はこうした講習会や研修会を通じて、講習生や研修生だけでなく、後から入って来た後輩たちを見ていて礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するのにかかる時間というのがわかってきました。
また、礒谷療法師として礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するには、施術者や指導者として理論と技術を学ぶだけでは不十分だということもわかってきました。
自分も一患者として毎日礒谷療法(礒谷式力学療法)の施術を受けながら自宅矯正法と日常動作による矯正法を実行する必要があります。
以上のことを前提にすると、礒谷療法(礒谷式力学療法)を修得できる期間というのははっきりしてきます。
入門期では、礒谷療法(礒谷式力学療法)のことが何となく最低限度わかるようになる段階までに約6カ月間(1日8時間×週6日×6月26週=1248時間)かかります。
初級期では、礒谷療法(礒谷式力学療法)のことがある程度わかるようになる段階までに約1年(1日8時間×週6日×1年52週=2496時間)かかります。
中級期では、いろいろな臨床例に出会い礒谷療法(礒谷式力学療法)を身につける段階までに約2年(1日8時間×週6日×2年104週=4992時間)かかります。
上級期では、臨床経験を積み重ね礒谷療法(礒谷式力学療法)を体得する段階までに約3年(1日8時間×週6日×3年156週=7488時間)かかります。
したがって、約3年の臨床経験で習い事やお稽古ごとの初段といえるでしょうか。
ただし、これは優れた礒谷療法師の先達に就いて毎日朝から晩まで一緒に現場にいて最低でも5000時間~6000時間の臨床経験を積むことと並行して、自らも毎日礒谷療法(礒谷式力学療法)を実践するという前提での話です。
優れた礒谷療法師の先達と毎日現場で朝から晩まで一緒ににいて、先達が患者さんを施術している技術を習い、患者さんへの対応を学び、患者さんの変化を追って患者さんとの経験を積んでいかないと礒谷療法(礒谷式力学療法)は修得できないのです。
個別の患者さんとの経験を積むということは、同じ患者さんを追っていかなければなりませんから、毎日現場にいないと多くの同じ患者さんを見聞きして追跡することはできないのです。
ですから、1週間に1度くらい礒谷療法(礒谷式力学療法)へ勉強に来ても覚えられないのです。
礒谷療法(礒谷式力学療法)はやり方を教わっただけでは習得できないからです。
これらの条件を満たした人物だけが礒谷療法(礒谷式力学療法)専門の一人前のプロの礒谷療法師として認められるのです。
私が礒谷療法(礒谷式力学療法)を受け入れるまでの期間
上記の修得期間は、何も講習生や研修生、後輩たちだけではありません。
私自身の経験と照らし合わせるも、礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得するのに上記のような経過をたどっており、上記の期間がだいたい当てはまります。
もっとも、私の場合は疑り深い性格もあって、礒谷療法(礒谷式力学療法)を確信してはいても、どこかで礒谷療法(礒谷式力学療法)を疑っているところがずっとありました。
それで、私が礒谷療法(礒谷式力学療法)のことを納得して受け入れられるようになるまでは約4~5年近くかかりました。
4~5年という幅があるのは、ある時点で急に納得したということではなく、疑えるところまで疑っても礒谷療法(礒谷式力学療法)に一定の効果があるということを徐々に認めざるを得なくなっていった経緯があるからです。
私の治療経過
私自身の矯正治療は、矯正を開始してから約2年後に矯正のし過ぎで脚型が反対になってしまいました。
そのため、右側にひどい腰痛が起こり、脚にも痛みとしびれ(痺れ・シビレ)が出てしまいました。
そこで、LO型だった脚型をLOS型、ROS型、RO型と順次変えていき、とうとうR型になってしまいました。
しかも、R型でも極端に右足を後ろへ引く応用形の足の位置にせざるを得ませんでした。
私は体調を悪くしてからそれこそいろいろな病気や症状がありましたが、その一つに、ずっと腰痛がありました。
定期的にぎっくり腰(ギックリ腰)を起こしては動けなくなっていました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正治療を始めてからも、時々ぎっくり腰(ギックリ腰)を起こしました。
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の内弟子になってからもぎっくり腰(ギックリ腰)を起こしていました。
ぎっくり腰(ギックリ腰)を起こした時は、さすがに患者さんの施術はできません。
礒谷療法所で反中先生や菊池先生に矯正をしていただき、一患者になって屈伸運動を行っていました。
それを見ていた患者さんは、先生である私が腰痛で患者として屈伸運動を行っている姿を見て笑っていらっしゃったものです。
それが、矯正治療を開始して2年後にまたまた酷(ひど)いぎっくり腰(ギックリ腰)になってから、それ以降は腰痛が起こらなくなりました。
矯正治療を始めてから約2年間で私の身体が変わったのは間違いありません。
私は、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を受ける前に、整形外科では何度も腰椎分離症(脊椎分離症)と診断を受け、あなたは一生腰痛とは縁が切れないでしょうと言われていました。
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を始めてから約3年後、駿河台日本大学病院で診察を受けたとき、私の脊椎分離症(腰椎分離症)は見当たらないという診断を受けました。
背骨のどこも分離していないという診断結果でした。
矯正治療を始めて約3カ月目に起こった反応も、矯正のし過ぎで反対の矯正に変えてから約2年後に収まってきました。
最初に反応が起こってから収まるまで約4年かかったことになります。
この時の体験は私に多くのことを教えてくれました。
私のような反応が起こって症状が収まるまで約4年も矯正治療を続けられる人というのは皆無と断言して良いです。
そのお陰で、私は礒谷療法(礒谷式力学療法)の奥に潜む問題を浮き彫りにすることができ、力学整体の発見へとつながることになりました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)ではこうした反応に対応できないということも分かりました。
そうした中でも、一日だけ全身の筋肉の緊張状態が緩和した日がありました。
全身の筋肉の緊張が弛緩して初めて、普通の人が10割の世界で生きているとしたら、自分は4割の世界でしか生きてない状態も体験しました。
普通の人は何て楽な状態で生きているのだろうと、普通の人並みな身体の状態を体験でき、驚くとともに羨ましかったことを憶えています。
その他、絶えず頭痛があったのが頭痛がしなくなったり、首が動かないほどコチコチに硬くなっていたのがそうでもなくなったり、背中の筋肉がまるで綱引きをされているかのようにもの凄い力で引っ張られていたのが消えていたりしました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)の威力
私自身が礒谷療法(礒谷式力学療法)の威力を最も体験したのは、反中先生がきっかけでした。
反中先生によると、座布団矯正で1枚折りや1枚半折り、2枚折りなどは上半身を反らせることになるので、却って治療には良くないのではないかという意見を述べられたのです。
矯正で上体をそれだけ反らせると、日常生活でも同じように上体を絶えず反らせておく必要があるというのです。
だから、常連の患者さんたちが座布団矯正で1枚折りや1枚半折り、2枚折りでやっているのは良くないので、座布団矯正は2枚か3枚くらいで止めておいたほうがいいという見解でした。
当時、私は座布団矯正を1枚半折りでやっていました。
それで、私は反中先生の意見に従って、座布団矯正を1枚半折りで行っていたのを、一時期の間3枚に増やしてやってみました。
それから約1年が経過した頃でしょうか、私は何となく体が重いというか怠(だる)いという感覚を感じるようになりました。
以前は、こんなことはなかったのにと思い、これはおかしいと考え始めて、座布団の枚数を減らしてみることにしました。
3枚を2枚に減らしても変化はありませんでした。
そして、1枚折りに減らした時に劇的な変化が身体に起こったのです。
1枚折りの座布団で矯正治療を開始した途端に、突然血液が大腿部から全身へと急速に流れるのを感覚として知覚したのです。
同時に、全身がぽかぽか(ポカポカ)と熱くなるような感覚も伴っていました。
それは、まるで水が急激に何かに染み込むような感覚でした。
あるいは、水の中に何か色のついているインクのような液体を落としてそれが急速にパーっと全面へと拡がるような感覚でした。
ずっと堰(せ)き止められていた水がまるで奔流のように勢いよく流れ出したという感じでした。
座布団の枚数を増やしたために身体(全身の筋肉系)の伸張が十分ではなく、血行が悪くなっていたことを私は悟りました。
そのため、何となく体が重いというか、怠(だる)いという感じがしていたのだということも理解しました。
それが、座布団の枚数を減らしたことによって、身体(全身の筋肉系)の伸張が十分に行われて急激に血行が良くなったのだということもわかりました。
このとき、本当に礒谷療法(礒谷式力学療法)は凄い療法だと心底思いました。
もし、反中先生の意見に従って、私が座布団の枚数を増やして、その後にまた減らさなければ、これを体験することはなかったでしょう。
そういう意味で、反中先生のおかげで、私は貴重な体験をすることができたわけです。
この体験で、座布団の枚数は1枚折りや1枚半折り、2枚折りなどでしないほうがいいという説が間違っていたこともわかりました。
後年、この体験が教訓になって、礒谷療法(礒谷式力学療法)のように矯正治療中心だけではなく、力学整体では、本人が気づかない(知らない)うちに身体の中で体縮が起こっていることや、定期的に体縮を解消するため日頃のメンテナンスの重要性を認識するようになります。
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を去る日
礒谷療法所(礒谷式力学療法所)へ入ってから約5年が経過しようとした頃、ある出来事が起こりました。
そのことがきっかけで、私は院長の礒谷俊子(礒谷圭秀)先生から呼び止められてあることを言われました。
礒谷俊子(礒谷圭秀)院長から言われた話は、私にとってショックな内容でした。
私は礒谷療法所(礒谷式力学療法所)では必要とされていないのだと悟りました。
そして、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を去る時が来たのだと思いました。
私自身はずっと礒谷療法所(礒谷式力学療法所)のお手伝いをしたいと考えていましたので、礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を去らねばならないということはとても悲しい出来事でした。
私は礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を去る決意したあと、眼に涙が浮かんで滲みました。
私自身は、自分の体調のこともあり、それまで独立開業することまでは考えていませんでした。
また、患者さんや講習生の方たちからは、私は菊池先生の後を継いで礒谷療法所(礒谷式力学療法所)の現場の責任者になると見られていました。
しかし、菊池先生からは「トミちゃん(私自身こと、菊池先生はわたしのことを親しみを込めてそう呼んでくださっていた)のためには礒谷療法所(礒谷式力学療法所)にいないほうがいい」と言われました。
他の親しい礒谷療法師や講習生の方々からも「冨岡さんはもう礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を辞めたほうがいい」と言われました。
それで、私も独立開業する方向で動き始めました。
独立開業と二つの発見
そうして、長年お世話になった礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を1995年(平成7年)の7月いっぱいで退職することになり、平成7年の9月に地元の兵庫県赤穂市に帰省し、10月に独立開業しました。
その時、私は34歳で、まもなく35歳になろうとしていました。
その後、反中先生がすぐに礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を辞められ、しばらくして菊池先生も礒谷療法所(礒谷式力学療法所)を辞められ、後輩の倉津充さんも地元の鹿児島県阿久根市で独立開業しました。
礒谷式力学療法総本部には優れた先達である先生達がいなくなってしまいました。
私が辞める頃には、礒谷式力学療法総本部には反中先生はほとんんど出ておられませんでしたし、菊池先生も毎日出て来られなくなっていて出て来られても数時間しかいらっしゃらないような状態でした。
私が辞める頃の当時から、既に優れた先達に付いて礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得できる状態はなくなっていました。
そのため、礒谷式力学療法総本部では師事する先達がいない状態で、優れた先達に付いてこそ礒谷療法(礒谷式力学療法)を習得できるのであって、優れた先達でない人に礒谷療法(礒谷式力学療法)のやり方だけを教わっても習得できないのに、礒谷療法(礒谷式力学療法)の伝承はどうなっているのかが心配で気がかりでした。
私自身は開業後の最初は礒谷療法(礒谷式力学療法)の専門の治療院としてやっていました。
ところが、独立開業してから2年後の1997年(平成9年)の4月頃に、偶然ほぼ同じ時期に前後して2つの発見をしました。
私が36歳のときでした。
第一の発見
第一の発見は、治療の本質というのは刺激ではないかということでした。
そうして、刺激という観点から改めて治療というものを考察してみると、治療というものがどういうもので、その根底にはどういう問題があるのかということもわかってきました。
ほとんどの治療法は、この問題を内在しているということも明らかになりました。
ところが、力学整体ではこの問題が発生しないということもわかりました。
この発見によって、まったく新しい視点で治療というものをよく理解できるようになりました。
私はそれを偶然に発見し体系化することができたのです。
第一の発見をしたときには、自分の発見に驚き、興奮していました。
第二の発見
第二の発見は、峯村浩著『こりと痛みと背骨の曲がり』(三天書房、絶版)という本を再読したのがきっかけになりました。
私は、何年も前にこの同じ本を読んだことがありました。
その時は、この本で説明されている峯村浩氏の「自律整体健康法」の考え方に感銘を受けました。
もしかしたら、自律整体健康法は礒谷療法(礒谷式力学療法)よりも優れているのではないかという感想さえ持ちました。
そこで、自律整体健康法の施術を何度か試しに受けに行ったこともあります。
しかし、実際に施術を体験してみてからは自律整体健康法の技術に興味を失ってしまいました。
それが、何年も後になって、自律整体健康法の本を再び読んでみたところ、私の頭の中で自律整体健康法の「筋硬縮理論」の考え方と礒谷療法(礒谷式力学療法)とが結びついたのです。
それがきっかけで、従来の礒谷療法(礒谷式力学療法)を超える新しい理論を発見することになりました。
私は従来の礒谷療法(礒谷式力学療法)とは異なる新しい理論を構築する思索と考察の作業に着手することになりました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)というのは非常によく考え抜かれた療法で、私はその理論と技術もほとんど完成されていると考えていました。
ところが、長年、自分の身体で体験したり、現場で実際の臨床経験を積んでゆくと、礒谷療法(礒谷式力学療法)の理論ではどうしても説明のつかない現象などに遭遇することが出て来るようになりました。
当初は、そうした説明のつかない現象については礒谷療法(礒谷式力学療法)の例外であるとして無理に自分を納得させ処理していました。
どんなに優れた理論であろうと、不確実性の原理が支配する人体のすべてを完全に説明し尽くせることは現実にはあり得ないだろうと考えたからです。
しかし、経験を積めば積むほど、そうした礒谷療法(礒谷式力学療法)では説明のできない現象についての謎が徐々に増えて、私は礒谷療法(礒谷式力学療法)に対する数々の疑問を抱え込むようになっていました。
しかし、新しい理論では、礒谷療法(礒谷式力学療法)では説明のつかなかった現象や、礒谷療法(礒谷式力学療法)では分からなかったことを理解できるようになったのです。
その結果、礒谷療法(礒谷式力学療法)では対応できなかった場合でも、新しい理論では対処(対応)できるようになったのです。
私の腰痛(脊椎分離症・腰椎分離症)や全身の筋肉の異常緊張は身体全体の体縮が原因であることをはじめ、甲状腺の変形は首周囲(頸部周辺)の筋肉の体縮であることや、病気であったホルモン分泌異常(甲状腺機能亢進症・バセドウ病)も体縮が関係しているのではないかと推測されることや、めまい(眩暈・目眩)が体縮と関係していることや、咳も気管・気管支の筋肉の体縮であることも関係づけることができるようになりました。
力学整体の誕生
第二の発見の理論の基礎がかたまると、私は親しい礒谷療法(礒谷式力学療法)の講習生や後輩の中で聴講を希望する礒谷療法師の人達に新しく発見した2つの理論について講義を行いました。
その講義を受けた人たちからは以下のようは感想が寄せられました。
その1つは、新しい理論の内容をよく理解できないという感想がありました。
礒谷療法(礒谷式力学療法)を深く理解していないと、新しい理論を理解するのは難しい部分があるため、よく分からないというのも無理もありません。
もう1つは、新しい理論の価値をある程度理解できた人達からは、礒谷療法(礒谷式力学療法)を大きく超える画期的なものであるという感想でした。
従来の礒谷療法(礒谷式力学療法)が旧理論だとすれば、第二の理論は新理論だと言ってもいいというものです。
また、新理論にもとづく療法は、もはや礒谷療法(礒谷式力学療法)とは全く異なる療法であるという評価でした。
礒谷療法(礒谷式力学療法)とは全く別物の療法になってしまっているという意見でした。
そこで、私は新理論にもとづく療法を礒谷療法(礒谷式力学療法)と区別するために「力学整体」と命名することにしました。
力学整体の進化と発展
その後、小滝 透 (著)『ヒトはなぜまっすぐ歩けるのか―「めまい」とバランスを科学する』(第三書館)を読み、福田精氏と檜学氏の平衡生理学、各種の反射、めまいと筋肉の異常緊張の関係(筋肉の異常緊張による過剰な感覚性インパルス発生と伝達による脳幹・小脳の機能異常)、脳神経解剖学者の平澤興氏の骨格筋の支配に対する自律神経の関与説などを知り、力学整体の理論的裏付けの参考になりました。
次に、岡林龍之著『アヒムサ健康法―「いのち」は病いを超える』(柏樹社)、岡林龍之著『アヒムサ家庭療法―「いのち」をつなぐ』(柏樹社)を読みました。
岡林龍之氏の「アヒムサ健康法」を通じて、「人間科学協会」会長でカイロプラクターの大湊大鑑氏の「短縮則理論」を知り、力学整体との共通性により新理論と技術に影響を受けました。
また、松尾 毅 (著)『腹筋運動をすると腰痛になる』(アチーブメント出版)を読み、松尾毅氏の筋肉トリートメント『MAGIC』(オステオパシーのストレイン&カウンターストレインとと筋エネルギー法)の「筋肉のロック」と「筋肉原因説[筋肉拘縮説]」を知り、力学整体との類似性により参考になりました。
それから、加茂整形外科医院院長 加茂 淳 (著)『トリガーポイントブロックで腰痛は治る!』(風雲舎)を読み、整形外科専門医・加茂淳氏の『トリガーポイントブロック』の「筋痛症(筋肉スパズム[けいれん]による痛み)」などを知り、力学整体との共通認識により理論と技術の範囲が広がりました。
その他各種情報を参考に役立たせておりますが、特に上記からは力学整体の新理論を深めることができました。
その結果、力学整体の基本原理は源流の礒谷療法(礒谷式力学療法)とはまったく異なる理論で構築されるに至っています。
また、力学整体の整体操法と自己整体法は礒谷療法(礒谷式力学療法)とは異なる原理と理論で技術が運用されています。
力学整体の理論と技術の運用は、力学整体研究所の会員の皆様のご協力のもとに教えられながら、自らも力学整体を実践しつつ、より進化・発展させるべく研究活動を継続しています。
力学整体研究所の設立
2000年(平成12年)には研究所を開業当時の場所から現在の場所へ移転しました。
それに伴って、整体院の名称を力学整体研究所と変更しました。
現在は、会員の皆様のお陰で力学整体研究所も力学整体に関する世界で唯一の研究機関と治療院という自負と自信のもと、会員の皆様に支えられ成り立っています。
力学整体研究所は、これからも会員の皆様のパートナーとしてありたいと願っています。
ご来所頂いている会員の皆様への責任として、これからも力学整体研究所は発展拡大、質の向上と共に、気楽に来院できるアットホームな整体院を目指しています。
どうぞ末永くご愛顧のほどをよろしくお願いします。
力学整体研究所 代表 冨岡正喜